「芯焦げ」「芯残り」と「心残り」の問題

先日焙煎していて非常にショッキングなことが起こりました。温度・排気の調節を完璧にこなし、見てくれもすばらしく焼き上がったのに、飲んでみたら苦い。何と豆の内部が焦げていたのです。焙煎中は豆の外見と匂いで判断しつついろいろな調整を試みるのですが、それだけでは分からないことがあるのです。因みに豆の内部だけが焦げてしまう現象を「芯焦げ」、逆に内部にまで火が通らない現象を「芯残り」あるいは「生焼け」と言います。

折しも連日「政治と金」の問題が報道されています。政治家たちの答弁を聞きながら思うのは、言葉で議論していても、決して腐敗した心の問題にまでは届いて行かない、ということです。仮に政治資金規正法が改正され、派閥が解散しパーティーを開くことさえなくなったとしても、必ず法の言葉に抜け道を見つけ、派閥も「脱法献金」も復活することでしょう。人の心が変わっていないし、議論で心まで変えることはできないからです。

同様の問題として、差別の問題があります。たとえば障がい者差別の問題。
政治家初め多くの人たちはこの問題を差別用語の問題に矮小化します。「しょうがいしゃ」の表記も、「障害者」→「障碍者」→「障がい者」→「障がいのある方」などと、差別にその表記が使われるたびに変化して来ました。そのうち表記のしようがなくなるのではないかと危惧します。一方で、差別の問題が無くなったかと言えば、一向に無くなりません。心の問題が等閑だからです。

とはいえ、芯焦げ・芯残りのコーヒー豆のように、他人の心の中は見えないし、そこまで届いて行くことはなかなかできません。自分のことでさえ、体裁は繕えても心まではどうすることもできないのが私たちです。

すべてを見通し、すべてがおできになる神の御手に明け渡すしかありません。まず自分のことから。

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